自分史を募集します

関西編集舎の
制作サービス

プロの記者があなたを直接取材してあなたの「自分史」を代作します。ご両親の退職や、長寿の祝いの贈り物にも。
「自分史代作」サービス

企業やお店の特色をしっかりと把握し、わかりやすくアピールするホームページが1ページ9,800円からと格安。
「ホームページ制作」サービス

時間とコストがかかる関西への出張取材。そんな関西取材をアウトソーシングしませんか。
関西取材アウトソーシング

経験豊かな記者が企画から原稿執筆、校正まで担当。企業の節目を格調高くまとめます。
「年史編纂」サービス


私と仕事と病気と喧嘩 (1)

安藤拓朗



直腸癌


「安藤さん中へどうぞ」

外科外来の診察室に入ると前田先生が

「ズボンを下げパンツも下げて、そこに横になってください」

横にある診察台を指して言われた。指示された通り横になる。

「失礼します」

肛門に手袋をはめた指を入れた。何かを探しているようだ。

「腫瘍があります。精密検査をしますので外でお待ち下さい。早い方がいいので日時は何時でも大丈夫ですか」

「はい大丈夫です」

超音波検査、レントゲン、内視鏡を入れてみるとの事、早い方がいいと言われ気になった。

「先生、癌腫瘍ですか」

「見てみないと分かりませんが。間違いないでしょう。肛門のすぐ傍です」

直腸癌のようだ。痔と思って通院してきたが、それにしても此処に来てよかった。

超音波は簡単だが、内視鏡は時間もかかるし、喉からでなく肛門からなので大変だ。食事の制限もあると思う。看護師さんに呼ばれた。

「安藤さん此方へどうぞ」

部屋に入る。

「色々検査があります。入院してからもありますが、その前にもあります。看護師の指示を受けてください」

看護師さんがパンフレットを渡しながら

「内視鏡検査は五月一日午後二時に取れました。超音波は明後日十時になります。一階の売店で必要なものは売っています。食事は書いてある通りお願い致します」

予約表を貰い一階の売店で指示されたものを購入する。急いで家内に電話した。

「お母さん癌みたいだよ。まだ検査してみないと分からないが間違いないよ」

「癌の場所は」

「直腸だ」

「早く帰ってきて」

「うん急いで帰る」

食事の制限があり薬も飲み始める。当日までに腹の中を空にしないといけない。緊張感からか腹は減らないし不安が付きまとう。病気なんかに負けるもんかと思うのだが、病気が病気なので負けそうになる。

内視鏡検査当日午前中に仕事を済ませ、家内と待ち合わせ東京中央病院に向かう。放射線検査の受付で予約票を出し呼ばれるのを待った。

検査を受ける人が意外に多い。近年食事の洋風化で、癌が多くなったと聞かされたがうなずける。しばらく待つと

「安藤さん横の扉から入って下さい。下着を脱いでロッカーに入れ、備え付けの物に着替えて下さい」

看護師さんから三番の扉の前に行くよう言われた。見ると赤ランプがついている。何方か検査中のようだ。

おかしいと思って東京中央病院に来て今日がある。手遅れになる処だった。

自分には運が味方した。そんな事を考えているとドアが開きランプが消えた。六十代の女性が出てきたが緊張した顔だ。少し待つと

「安藤さんどうぞ」

部屋に入ると大きな機械が目に入った。寝台があり動くようになっていて、胃カメラのようなものがついている。これを肛門から入れられるのだ。横にガラス窓がついていて外から見えるようになっている。

パソコンのようなものがあり、あれに写るのだろう。看護師さんが

「この台に乗ってください。お通じはありましたか」

「食べていませんので」

「腸の動きを抑える注射をしますので腕を出して下さい」

注射してもらい寝台に横になった。

「二十分ほどかかります。気を楽にしてください。おなかに空気が入りますので、痛くなるかもしれませんが、ガスが抜けると楽になります」

前田先生がガラスの向こうにいる。検査技師が入ってきて

「さあ始めます。横を向いてください」

横向きになると肛門に管が入れられた。「力を抜いて。はいそれでいいです」

胃カメラと同様少しずつ入って行く。胃カメラは何回も飲んだが、肛門は初めて腹が張る感じだ。

「何かあったら遠慮なく言って下さい」

「はい」

写真を撮っている。フラッシュの光が見える。変な感じだ。

「もうすぐ終わります」

管がスーと抜かれるのが分かった。前田先生が出てこられた。

「間違いないようです。写真でよく調べますので二日ほどかかります。四日午後二時写真を見ながら説明します」

着替えて外に出たが腹が痛い。椅子へ横になる。

十分位してガスが抜けた。スーと腹の痛みが治まりほっとした。

「どうでした」

「間違いなく直腸癌見たい。詳しくは明後日前田先生から話がある」

病院の外に出ると、同じ空気なのに違うような気がする。昨日から何も食べていないが空腹感はない。緊張が続いているのかも。

検査結果までわずか二日だが長かった。早めに家内と家を出た。大袈裟だが覚悟は出来ているものの本音は怖かった。外科の外来で順番を待つ。

「安藤さん中へどうぞ」

家内と二人で入った。心臓がドキドキ、前田先生が写真を見せながら説明してくれた。

「ここが腫瘍です」

指摘された処は赤黒く盛り上がって、初めて見た自分の癌だ。

「肛門から四センチ以上離れていないと肛門は残せません。人工肛門になります。ぎりぎりなので残すのは無理と思って下さい」

「此処がそうですか」

「直腸癌です。切ってみないと結果はわかりませんが、転移の可能性もあります。早い方がいいので入院手続をしてください。再度検査を行います」

「安藤さん此方へ」

看護師さんに呼ばれ待ったなしになった。入院は五月六日、検査に三日、手術は十四日になるとの事、色々指示を受ける。

親父も同じ病気だった。俺は負けない。病気と喧嘩しても生きてやる。

「心配だわ」

「頑張るよ。簡単に死ぬもんか。どんな事をしても生き抜いてやる。お母さん見てて」

保証金五万円を預け、必要事項を書類に書き込み手続きは終わった。なぜか山岳部で青春をかけた後立山連峰白馬岳、唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳、爺岳、凍結した白馬大池、栂池鐘の鳴る丘、立山連峰の立山、剣岳、上越の谷川岳、神奈川の丹沢等が走馬灯のように浮かんできた。

雪山のラッセル、夏のボッカ、三つ峠の岩場、丹沢の沢登り、先輩のスッポンにしごかれたすべてが懐かしく思い出され、冬の大糸北線、後立山連峰の稜線から上がる雪煙りをもう一度見たいと思った。

「俺は負けないぞ。病気なんか糞喰らえ」

二日間で仕事の整理を済ませ準備した。同情されてもそこまで後は自分との闘いだ。

一度の人生神様と喧嘩は出来ないが、病気とは思いっきり出来る。負けないぞ何があっても生き抜いてやる。

国は小さく資源のない国が、敗戦後驚異的な力で世界有数の経済大国になった。何がそうさせたのか。勤勉で教育程度の高さ、すぐれた団体行動の出来る、世界に誇れる国民性だ。

明治大正生まれの諸先輩に見守られ、我々昭和一桁が、今日の日本を作る原動力の一翼を担ったと誇れる。さよならは言えない心の中で負けるなと叫んだ。

戦時中小学校から必修で剣道か柔道をやらされた。安藤は剣道を選んだ。授業以外に道場にも通った。正徳館井上道場。

井上先生は明治生まれの典型で、普段は優しいが道場に出ると顔が変わった。厳しく日本人はこうあるべきと体で教えられた。

薩摩示現流で初太刀が凄い。上段から打ちこむ強さは並みでなく、有段者が竹刀をはじき飛ばされる。寒稽古、暑中稽古、思い出すと懐かしい。学校では教えられない事も勉強出来た。

病院のベッドで夢をなくすなと自分自身と葛藤した。進行性直腸癌と言われ、まだ他に転移しているかも知れない。これからは癌と喧嘩しながら生きていく事になり、死と隣り合わせになって

「まだ死ねない。生きるんだ。神様自分にはやり残した事があります。もう少し生きさせてください」

人間なんて我儘で勝手なものだ。それでも生きたい。

手術当日八時に家内が来てくれた。体温測定、血圧、薬を飲む、看護師さんが傍にいて家内とはゆっくり話が出来ない。寝台車が来た。

注射され手術室に。部屋を出る時同室の皆さんが

「頑張って」

声を掛けてくれた。手を上げて

「お母さん行ってくるね」

家内がうなずいて送ってくれた。九時に始まるので、部屋の中は白衣を着た人が忙しそうに動いている。

麻酔担当医師が傍に来て、口にあてるコップのようなものを見せ、かぶせたら数を数えてくださいと言う。上向きの口と鼻を塞ぐように被され

「はい数えて」

「一、二、三」

分からなくなった。手術は出血が止まらず十二時間かかったそうだ。そうだというのは本人が麻酔で何も分からない。リンパ腺に転移していて、目で見える処は全部取ったとの事、待合室で待っていた家内と娘は大変だったと思う。

無事に終わりましたと言われた時家内は泣いたそうだ。国際結婚で再婚し五年、頼るのは主人のみ、その主人が倒れたのだからどんな気持ちだったろう。まして前の主人を肺癌で亡くしている。

前田先生も予想していたより、進んでいたので驚かれたようだ。この先は神のみぞ知るになる。

放射線治療で二十五日間、抗癌剤も飲まされた。体重は二十一キロ減った。七十五キロが五十四キロ、体に肉付きがなくなり見るからに病人だった。ただ有難い事に、癌特有の皮膚色にならなかった。見舞いに来てくれた親戚や友人は先を悲観した。腸閉塞で二回手術、だけど安藤は何時でも病気と喧嘩していた。

「今畜生。お母さん負けるもんか。今は痩せて見る影もないが、今に見ていろ、病気なんか糞喰らえだ」



 空襲


昭和二十年三月十日、アメリカ空軍空の要塞B-29による、東京下町は無差別爆撃で焦土と化した。何十万の人が死んだり怪我したり焼け出された。

安藤は旧制中学一年生、父と二人で深川常盤町の工場を守る為東京に残った。母と弟妹は父の故郷群馬県高崎在に疎開した。

空襲が始まった時焼夷弾が遠くに落ち、きれいだなと思うほどだったが、段々近くになり火の粉が見え心配になった。

工場は隅田川の支流小名木川にかかる高橋の傍にあり、

「アッ あそこに落ちてきた。唐沢さんの処にも落ちた」

火叩きに水をつけて叩いても、火が飛び散るばかりで消えない。焼夷弾の中身は油だった。

近くの家が燃え始め、彼方こなたから火の手が上がった。

「お父さん熱いよ」

「離れるな」

父は隣組の班長で、皆が逃げるのを助けていた。早く逃げないと死んじゃう。必死で張り付き手伝った。坂口さん、小西さん、舟に逃げるので小名木川に向かった。

「安藤さん早く」

父が

「舟はやめて清澄庭園へ」

石田さんも川に向かった。

「お父さん死んじゃうよ。早く」

安藤は父を促した。父は様子を見ている。そこへ福田さんが家族四人で走ってきた。

「安藤さん何所に逃げますか」

「清澄庭園に逃げてください」

福田さん頭を下げて、お先にと高橋に向かった。父は、防空頭巾とどてらを持って何をするのかと思ったら、防火用水につけて水浸しにした。びしょびしょ。

「拓朗、頭巾と、どてらを被れ」

二人とも頭から被った。濡れて重たい。

「清澄庭園に行くぞ」

福田さんに教えた通り、川に行かず高橋に向かった。安藤は舟が駄目という事が分からなかったが、風と火の勢いを見て納得した。

「ゴー ゴー」

風が凄い。火が道路を這ってくる。夢中で父の後を走った。風で体が浮き上がり飛ばされそうで、出来るだけ体を低くして走った。火の粉が飛んでくる、途中の防火用水にどてらを突っ込み水につけ被り直す。

頭の上を風がうなり火の粉が飛んでいく。看板やトタン屋根が飛ばされている。電線が垂れた処もある。息が苦しい。父に声をかけられない。

「拓朗、大丈夫か」

「大丈夫」

これだけ言うのがやっと。同じように走って行く人がいる。清澄庭園までの時間がものすごく長く感じられた。庭園のコンクリート塀が見えた時

「拓朗、もう少しだ頑張れ」

「うん。だけど熱い」

正面入り口から庭園に入った。逃げてきた人が結構いる。そのまま奥に行き池に飛び込む。深さも何も分からないが臍位だった。人声、風の音、火の粉、これで弾が飛んで来たらと思うと怖ろしい。初めて戦争の怖さを知った。

池の水を頭からかけて濡らす。乾いた処に火の粉が落ちるとブスブス焦げる。

池の中にどの位居たか覚えていない。やっと火が下火になり池からはい出した。何も食べてないが腹は減らない。寒くもない。

外に出た人が何を見てきたのか、ぶるぶる震えている。安藤は父と一緒に塀の外に出てみた。市電通りに出ると、彼方此方に黒焦げの死体が転がっている。

見ないようにしても多すぎて避けようがない。男女の区別がつかないのがある。

川に逃げた人は舟が燃え殆ど亡くなったそうだ。小西さん、坂口さん達は駄目だったと思う。火が地面を舐めるように走り、川も同様だったはずだ。舟に逃げたら助からなかった。

父の判断に感謝しなければ罰が当たる。火も収まったので工場に行く。途中目のやり場がないほど焼けた家屋、人が黒焦げで転がっている。

緊張しているせいか腹もすかないし、濡れ鼠なのに寒くない。ただ戦争の恐ろしさが体を震わせた。従業員は早く逃げて被害はなかったが、工場は綺麗さっぱり焼けて瓦礫の山だ。

小名木川に死体が浮いて流れている。燃えた船の残骸も流れてくる。何も残ってない。父は茫然と立ちつくし涙が出ている。

「拓朗、日本は負けるぞ。田舎に戻ろう」

日本は負けない神風が吹くと教えられてきた。子供なりに竹槍で戦うつもりでいたが、現実この空襲で何もかも打ち砕かれ、父の言う事、国の言う事、先生の言う事、比較してはいけないが複雑な気持ちになった。

だが、日本は負けない神国日本だ。早く大きくなって、飛行機で敵艦を沈めてやると思っている。悔しいが年齢だけは早くする事は不可能だ。



終戦


父と二人やっと汽車の切符を手に入れ、群馬県高崎在の疎開先に帰った。親戚が養蚕する場所を借り直して住んでいた。

学校まで一里(四キロ)を歩いて通っている。バスはない。安藤が転校する中学まで徒歩と電車で二時間かかる。父からは

「歩け」

この一言で終わり。自転車は貴重品で買ってもらえない。小学校は六年、義務教育はその上高等科二年で終わり。中学は六年から受験五年制だった。不合格だと高等科一年で、これも駄目の時は高等科二年で最終受験。

村の進学率は低く殆ど義務教育で終わり。進学するのは限られ実業学校も同様だった。(戦時中商業学校はなくなり工業学校だけだった。

中学、実業学校の一年生は十二歳から十四歳までいた。安藤の兄弟姉妹は成績が良くみな級長か副級長、戦災で何も無くなったが、それだけは親父の誇りだった。

朝五時四十分の電車に乗る。乗り遅れると遅刻する。一時間に一本のローカル電車だ。

冬の群馬東部は上毛三山からの吹き下ろしが強く寒い。(赤城山、榛名山、妙義山)かかあ殿下と空っ風で有名だ。奥さんが強いのと間違えられるが、よく働くという意味だそうだ。

妙義山の後ろに活火山の浅間山が見える。素足で手袋なし、暗いうちに家を出て暗くなって帰る。履物はほうばにした。減ったらはを取り換えれば済む。

カランコロンと音がしてすぐわかる。拓ちゃんが通るから、何時だと時計代わりになった。身長も急に伸びた。一年で十センチから伸び着る物が追い付かない体重も増えた。

田舎では疎開者が苛められた。

「あいつは疎開だ」

好きで来たわけじゃない。弟、妹が苛めにあうと竹刀を持って飛んで行った。苛めた奴を呼び出し竹刀で殴りつける。

夜でも学校から帰ると飛んで行った。父がいる時、拓ちゃんに殴られたと言ってきても信じない。父には絶対服従口答えした事がない。

「はい」

返事が良く言われた事は直ぐやった。こんないい子はいないと思っている。その分外で暴れた。

「拓ちゃんに殴られた」

「拓朗はやりません。喧嘩なんかしません」

受け付けないし聞きもしない。あの兄弟姉妹を苛めると、兄貴が飛んできて殴られると誰も苛めなくなった。相手が歳上でも向かって行った。喧嘩は口じゃない常に先手必勝だった。安藤の処だけは誰も苛めなくなった。

正徳館井上道場で鍛えられた剣道と礼儀作法が身につき、村では数人しかいないエリート中学生だった。

昭和二十年夏も盛りになった八月六日、広島に特殊爆弾が落とされた。上空何百メートルかで爆発、一瞬にして広島市は崩壊した。高熱で破壊力が強く直下の人間は瞬時に消え影も形も残らない。

建物も鉄骨が高熱で曲がり残骸だけ、木造家屋は何も残らない。何十万の人が死に、怪我(大半は火傷)で修羅場になったと報道された。NHKのラジオ放送が頼りだった。三年間は人が住めないと言われた。

その後八月九日、長崎に同じ爆弾が落とされ広島同様だった。次は何所だと日本中が恐怖のどん底に落とされた。

特殊爆弾がどんなものか当時は分からなかった。新聞ラジオは、特殊爆弾としか書いてないし言わなかった。

戦災で死ぬ思いはしたが、負けるとは思っていない。神風が吹くと信じていた。原子爆弾と聞いたのは戦後だった。

昭和二十年八月十五日正午。勤労動員で農家の手伝いに出ていた。海軍じゃないが月月火水木金金、玉音放送があると学校に全員集められた。校庭で校長以下在職職員、在校生全員整列放送を待った。

真夏の太陽が照りつけ熱いが、何事かと緊張している。まさか無条件降伏とは誰も想像つかない。

正午、天皇陛下が直接お声を賜るので謹んで拝聴するよう、NHKのアナウンサーが前置きで話、天皇のお声が流れた。

「堪え難きを堪え忍び難きを忍び――」

お声が流れた始め、全員が泣き崩れ号泣した。負けるはずのない日本が負けた。昭和二十年八月十五日正午。

戦災で死ぬ思いまでし疎開、群馬県甘楽郡白倉村大字白岩。片道二時間かけて通学、早く大きくなって航空兵になるんだ。予科練は十六歳で志願出来た。

東京府日本橋区箱崎町箱崎小学校の五年で大日本航空青少年隊に入った。訓練は松戸の河原で、初級用グライダー(プライマリー)に乗った。神武天皇の弓の先に止まった金の鳶をあしらったブルー地の腕章、憧れだった予科練、敗戦と共に少年期の夢が終わった。




▲このページの一番上に戻る