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神戸 ふるさとの町を忘れない (1)

樋口晶子



1995年1月。

夫と、1歳8ヶ月の長男敬と三人暮らし。

一戸建てを無理やり一階と二階に分割したような造りの文化住宅は、築数十年で、一階には実両親が、二階にはわたしたちが住んでいました。

家主は隣家の祖父母でした。



1992年の春に結婚した当時は、自分の会社に近いからと、わたしに相談もなく強引に申し込んだ宝塚市の団地に住むことになりました。

あまりの辺鄙さに倍率は0倍で、すぐに当選。

原付で通勤15分と喜ぶ夫に対し、ぎゅうぎゅう詰め電車で2時間通勤のわたしは毎日発狂しそうになり、事実半ばおかしくなったところに妊娠、悪阻、満員電車にもバスにも乗れなくなり、祖父母が空いている二階を貸してくれたのでした。

家賃は1万円ほど。実質使える部屋は茶の間兼食堂兼寝室にあたる6畳間だけで、後はほぼ使えない勝手の悪い間取りですが、大好きな神戸、大好きな生まれ故郷で初めての子を生み育て、わたしは幸せでした。

暴力的、暴言的な実父に時々振り回されていましたが、それさえ我慢すれば、と、他人には多少人見知りしながらも、ニコニコと愛想よくまっすぐ育つ長男敬の成長が嬉しく、時折育児ノイローゼにはなりながらも、穏やかに暮らしていました。

その月の正月が明けた頃、敬は初めての胃腸風邪に罹り、いつもの小児科にかかっていました。

母は、ごく近くの小児科を嫌い、かなり歩かなければならない古くからある小児科をわたしにゴリ押ししていたので、最初からそこに通っていましたが、高齢ではあるものの、本当に良い先生で、信頼して息子を任せることが出来ました。

胃腸風邪もすっかり治り、月半ばの連休、神戸製鋼ラグビー部が優勝した頃、わたしたち親子は、紙おむつが安いからと、車で買い込みに行きました。

敬は普段は布おむつを使っていますが、外出時や寝る時は紙おむつ利用です。

良質で高いもの、質はともかく安いもの、色々使い分けていましたが、その時は良メーカーのおむつを3パック買い込んでいました。

1月16日の夜、わたしは生理にあたっていて、しかも自分でもびっくりするほどの量でした。交換しても交換しても間に合わず、シャワーさえ逡巡し、敬の入浴は、階下の母に頼むことにすると、母が上がってきて入れてくれました。

普段なら頼むべき夫は夜勤に当たっていて、朝8時か9時にならなければ帰って来ません。

母が大好きな敬の嬉しそうな声と、遊んでやりながら洗っている母の声が風呂場から聞こえ、わたしは力士のイラストが描いてあるバスタオルで敬を受け取り、拭いてやりました。

「今日はなんか暑いなあ。わたしもう、ズボン穿かんと、パンツのまま寝るわ」

と風呂から上がった母が笑いました。

確かに、1月とは思えない暑さでした。

わたしも、素肌にトレーナー、そして膝より短いキュロットに素足という格好です。

基本的に靴下は履かない生活で、まだ1歳代の敬にも、冬でもそうして育てていましたが、履けと言われても無理だと言いたいほどの暑さの日。

じゃあな、と言いながら降りていった母に礼を言って敬を寝かせつけました。

お風呂のお湯は、夫が帰ってきた時のためにそのままにしていました。

炊飯器のご飯も、お鍋の中身も、夫のために置きっぱなしです。



わたしは、友達と一緒に、会報を発行して送付するサークルを主催していました。

ジャンルは雑多でしたが、エッセイやイラストを送ってくる人が中心でした。

それをわたしが仕上げて印刷所に送ることが多かったのですが、その夜セットして、朝になったら送ろうとこたつの上に置き、午前2時半、眠っている敬の横、布団に滑り込みました。



ズズズズ…という地響きで目が覚めました。

地震、とすぐに分かりましたが、それがすぐに勢いをつけ、家中が振動し、大揺れになります。敬が目を開けて身を固くしています。

「大丈夫、大丈夫、おかあさんいるからね」

と声をかけてぎゅっと抱き寄せますが、家は弾むような揺れで、軋みはじめ、棚の上の工具箱やイミダスがわたしの上に落下して来ます。

不思議な感覚ですが、わたしはこの時初めて、自分が生身で生きている人間だということを知った気がしたのです。

何かにプロテクトされているわけではない、丸腰の人間。

そうか、このまま親子死ぬんだろあうな、と恐怖も感じずに思いました。

大揺れが終息していき、どこか遠くで、ゴゴゴゴ…という音が聞こえていました。

わたしはいつもガスの元栓を閉めずに寝ていましたが、ぴこぴこが鳴り始め、しまった、と思った途端、豆電球がぱん、と消え、停電と気づいた瞬間にぴこぴこの音も消えました。じわじわと漂ってくるガスの臭い。

防音のぼの字もない古い家なので、普段から階下の声や音はよく聞こえていましたが、母が、

「晶ー!敬―!」

と叫ぶ声が、家のどこかに穴でも開いたのかと思うほど、大きく響いてきました。

何だか奇妙なほど冷静になっていたわたしは、敬を抱えたまま布団の上に座り、無事だよ、という意味で、畳をどんどん、と叩きましたが、それが聞こえた様子はありません。何度も叫んでいる母と、父の怒鳴る声もしましたが、父が何を言っているのかは聞こえません。こちらから声をかける気力がなかったのですが、停電で暗い家の中を見回して、軋んでいるのを見てとり、

「生きてるよ!でも家があかんからすぐには出れん!」

と大声で返事すると、母から、

「うちもや!」

と返ってきました。

母の慌てふためきようが声に乗って伝わってきますが、二階が落ちていない、つまりは一階もぺしゃんこではないということですから、少しは落ち着け、と母に対して思うのですが、母はこういう時、小さい子持ちのわたしより冷静になれない性質だったというのが初めて分かりました。いえ、逆に小さい子どもを抱えただけに、わたしは意外に冷静になれたのかも知れません。



6畳間からすぐ玄関に通じる階段に面していますが、暗くてそこに辿りつけず、布団の背後のガラス戸を開け、板張りの狭い3畳ほどの部屋に出ると、そこに広い窓があるので、そこを開け、ガスから逃れました。

外には既に人がたくさんいました。

裏のおじさんが、

「助けてくれ!」

と走り出していました。わたしより3歳下の息子さんと古い二間の家で二人暮らしなのです。息子さんの救助を呼んでいるのだろうとすぐに見当がつきました。

わが家のみならず、ガス臭はそこらあたりに漂いつくしていました。

暗い中で立ち尽くす誰かがライターで火をつけて様子を見ようとでもしたら、とぞっとしました。

真下に母が立っていました。どうやってか家を出られたようです。

ただ、わたしと敬はどうやって家を出ればいいものやら。

明るくなればいいのですが、時計も見えず、今が何時やら見当もつきません。

「おかあさん、敬落とす、受け取って」

と母に言いました。

「えー、わたしにどないせえゆうんよ」

母がびっくりしていいました。

「二階や。大けがはせん。ここもうガスが充満しとるねん。

ガス吸わせたり、下手して爆発するよりマシや。

家財道具が散乱した家

できるだけ低くして手離すから、受けて」

と、わたしは、窓から敬をぶら下げて、もう少しで落とそうとしましたが、母が受け止めてくれる体勢になった様子はなく、手を離すわけにはいきません。

そうしているうち、家の裏手から、父が長い梯子を担いでやってきました。

父は梯子をうちの窓にかけ、敬を受け取りました。

「ちょっと待って、ガス止めてくる」

とわたしが言うと、

「ええわい!」

と怒髪天です。

いつもの怒り方だな、と思いながら、仕方なく高所恐怖症を克服して梯子をゆっくり降りました。

いつの間にか、避難が始まっているらしく、家の前を西から東に向けて歩いていく人波が出来ていました。ガチャ、ガチャ、と瓦礫を踏む音に気づいて足元を見て、やっとわたしは、地面いっぱいの瓦礫と、自分がその上に裸足で立っているのに気づきました。痛いほどの寒さは感じる足が、瓦礫やガラスを踏んでいる痛みを感じません。

向かいのお宅の塀が崩れ、一階が南側に倒れていました。

大工の父が昨春に、二階を改築したお宅です。

「これで地震が来ても二階だけは大丈夫や」

と父が冗談のように言ったのですが、まじまじと見ると、実際潰れているのは一階で、二階は全くの無傷でした。

わたしは前日のトレーナーにキュロットですが、敬はパジャマです。寒風の中、ぎゅっと抱きしめて座り込んでいると、女の人が一人、わたしを覗き込んで、

「赤ちゃん大丈夫?」

と訊いてくれました。

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

はっきり御礼と返事が出ました。

コミュ障なほうなので、いつもこれが出来ないほうなのですが。

家全体を見る余裕もなく、ただ、全体に潰れているわけではないことは分かりました。隣家の祖父母宅も一見すると無事です。玄関が開いていて、祖父が靴箱の整理をしています。

「祖母ちゃんは?」

と訊くと、

「まだ中や」

と言いながら祖父は、奥に向かって、

「まだ待っとれよー」

と言っています。

祖母より何故靴の整理を優先しているのか分かりませんが、祖父もパニック状態だったのかも知れません。少しして、父が祖父母宅に入り、毛布を頭から被った祖母を連れて出て来ました。

祖母は半泣き半笑いをしながら、

「もう、わたし真っ暗な中で毛布かぶってあっちウロウロこっちウロウロしよんのに、待っとれよー、そこで待っとれよー、ばっかり言われて、何がどうなっとるんか分からんのよ」

とわたしたちに訴えました。

母が祖父に、

「おとうちゃん、悪いけど服貸して。わたしこれ、下何にも穿いとらんねん」

という声が聞こえました。

見ると、母は確かに、上は着ているものの、下、パンツのみ。お風呂の後、暑いからパンツだけで寝る、と言ったのは本当だったようです。

祖父はわたしにも上着を貸してくれました。

母の毛布を引っ張り出し、敬を包み、祖父母が出てきたところで、

「とにかく避難所行こう」

と声をかけました。

「避難所って何?それどこにできたん?」

という母の声に一瞬言葉を失くしました。

「何、じゃなくて、地域ごとに決まってるの。ここやったらM中やけど、ちょっと遠いから一杯になって間に合わんし、M南中に行ったほうがいい。すぐそこやから。

あそこは正式な避難所じゃないけど、追い出されることないやろうし、この人らもみんなそこに行くはずやから」

と歩いていく人を指し示しました。

敬を抱いたわたし、両親、祖父母で中学に向かいます。中学近くの四つ角で一旦止まると、四つ角の煙草屋さんが全壊しているのが目に入り、その近くのクリーニング屋さんの建物も雪崩状態に潰れていて、人に手助けしてもらいながらおじさんが出てくるところでした。暗くて見えないながら、町の様子が近くでなければ分かりません。

その四つ角で、祖父が、わたしたちと祖父母の家から徒歩2分のマンションに住む叔母とその小2の息子が心配だから行く、と側を離れました。途端に母が怒ります。

「旦那がついとるんやからほっときゃいいやないの!おかあちゃん自分の嫁さんやろ!わたしに押し付けてどうすんの!自分で見んかいな!」

ああ、苛立ってきたな。

自分にどうにもならない事態で手に余ってくると、苛立って八つ当たりし始める。こうなると黙って放っておくしかないんですが、こんな災害時にもその癖が出るとは。

そして今度は父。

向かいの家、つまり改装したお宅は、娘さんも息子さんも大人ですが、母子家庭で体の不自由なお舅さんを抱えているので、見に行く、と父も側を離れました。そして母がまたそこで爆発です。

「他人のことなんかどうでもええやろ!自分ちの家族面倒みいな!」

それも面と向かって言えるわけでもなく、いない所で怒鳴り散らします。

「もういいから、行くところ分かってるんやから行こう」

と般若のような顔の母と、か細い祖母を連れて中学校へ。

門がどうやって開けられたのか、既に校庭には避難してきた人が大勢集まって立っていました。

ここでまた、母が厄介でした。

地震の影響で校庭があちこちひび割れていたので、そこに立つのは嫌だ、地面が割れて落ちる、落ちて死ぬ、と、祖母を連れてあちこちをうろつき、どこにも立ち止まろうとしないのです。

「クレバスじゃないから落ちん!土が割れてるだけ!とにかく落ち着いてじっとして!」

とさすがに言いましたが、ブチブチ言う母。宥められません。

そして、ウエストゴムの緩いキュロットが少しずれたから、紐を結び直すから、と毛布に包んだ敬を少し母に預けると、

「何これ?どういうこと?わたしおかあちゃんの世話して、赤ん坊抱かされて、どういう目に遭っとると思うとるん?自分の子ぐらい自分で見んかいな」

と食ってかかるので、

「わかった。もういい。なんとかおんぶ紐取り出して、トイレでもなんでも、全部自分で連れてって面倒見ます」

こうなると、そもそもトイレどころじゃないだろうな、とは思いました。

生理絶頂期で、下半身はひどい不快感。どうなっているかも見たくない。敬がおむつの時期で却って良かったとさえ思いました。




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